ゲームって自転車みたいな物だと思う

※今回の記事はただの日記であり、書かれていることには特にエビデンスがありません

 

 

 

筆者はKSPというゲームが好きでよく遊んでいる。

このゲームは複数のパーツを組み合わせてロケットを作り打ち上げるシミュレーターゲームで、リアルな軌道計算により月に近づくと月の重力に引っ張られて軌道が変わったりすることを上手く計算しながら火星に着陸してそのまま地球に帰ってこれるロケットを設計したりできる。

 

しかしながらこのゲーム、ロケットの組み立てがめちゃくちゃ自由な上に「どうやったらまともに飛ぶのか」は教えてくれないので、めちゃくちゃなロケットを組み立ててそれが打ち上げ失敗して爆発する様を笑うという遊び方もあり、そちらをメインにしたプレイ動画も多数投稿されている、最近だとVチューバーのまぐろなちゃんなどが酷いロケットを爆発させていた。

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(どんなに適当でも燃料とブースターさえあれば打ち上げることができる)

 

ここで本題になるのだがこのゲーム「どうやったらまともに飛ぶのか」を学んでしまうと失敗しなくなり「打ち上げに失敗して変な方向に飛んでいくロケット」を天然で作ることができなくなってしまう、無論自由なゲームなのでわざと作ることはできるが「天然物」の面白さには敵わない、私が今作るめちゃくちゃなロケットには「ウケ狙い」の薄ら寒さが付き纏う。

 

私はこの現象を「自転車に乗れるようになった人間は、乗れなかった時のことを思い出せない現象」と名付けることにした。

 

 

ここで気がついたのが

「全てのゲームには自転車に乗れるようになった瞬間のような上達ラインがある」ということである

 

格闘ゲームであれば「波動拳昇竜拳が正確に入力できること(勝てるかどうかではない)」

STGであれば「敵をどの順番で撃てば高得点になるかのパターンでプレイするようになること(クリアできるかどうかではない)」

戦略シミュレーションゲームなら「戦略を立てること(何を言ってるんだと思うがこれが難しいし筆者も出来てない)」

パズルゲームなら「連鎖できるようになること(3連鎖が確実にできる)」

 

この領域にたどり着いて初めてそのゲームという”自転車”に乗れるようになり

人はそこから自転車を「乗りこなす」領域に入るのだという気付きである。

Eスポーツはいうなればここからサイクルロードレースの選手を目指す道だと考えると筋が通る。

 

各ジャンルの「このゲームジャンルは衰退した!」的な論も「自転車に乗れるようになる前に諦める人が増えた」という言い方にすると理屈がわかってくるし「このジャンルは自転車に乗れるようになってないと面白くないです」という世界ももちろんあるわけで、ゲームを自転車に例えると何もかも筋が通って見えてきた気がした。